カオソックの人々

5万年〜3万7千年前
3万7千年〜5万年前の時期にボルネオに人類が居住していた事は立証されており、これらの人々が最後の氷河期の終わり、約1万年前には、タイへ移住して来た者たちがあったと言われています。事実、この二つの陸地は大変似通った環境であったため、これらの人々にとっては、大変住みよい環境であったと言えます。 例えば、 巨大な竹の種で知られるGigantochloa baluiは、通常、ボルネオでしか見ることがなく、決して他の地域で野生化することはないと言われ、特に栽培に適さないこの種の竹でさえ、ボルネオからタイ半島へ持ち込んだ者がおり、実際発見されています。

1800年代
ラーマ2世の時代にカオソックに人が住んでいることを、初めて記録に残しています。この時期、ビルマ軍が南西の海岸沿いの町を攻撃しており、多くの地元の人々がジャングルへと安全を求めて逃げ込んでいます。移住により得た土地には多くの動物たちと肥沃な土壌、河川があり、更に多くの人々が移住することとなりました。

1994年
この地で流行病が発生し、多くの住民を死に至らしめ、生き残った人々は、本来の土地へと戻って行きました。その時、この村は“バーンソップ” と言われ、“死の村”として知られるようになったのです。 当時の山は“カオソップ”、“死山”として知られ、今日の名前の由来となっています。

1961年
401の道路がスラタニー県のプンピンからパンガー県のタクアパの間を繋ぎ、作物が栽培され、多くの人々とともに現代の兵器や道具が運ばれ、本来ある自然にとっては少なからず問題となっていきました。木材業、タングステンやスズの採掘業はソック川沿いの熱帯雨林にて行われ、土壌の侵食と共に沈殿物による川の水が茶色に変化するという現象が始まりました。

1970年代
タイの学生たちは共産主義の暴動に加担、カオソックに要塞を建て、秘密基地としゲリラ戦を企てました。1975年から1982年の間に、これらの生徒たちはタイの軍隊とのみならず、木材業に関わる人々、坑夫、狩猟を行う人々からも身を隠していました。

更にタイ政府とタイ国発電公団法に基づくタイ国発電 公団はカオソックは南タイランド地域を賄う大きな水力発電に適した土地であるとしています。一方、国立公園事業部は更に研究を重ね、生物の多様性からこの地を国立公園として守っていく価値のある地域であるという結論に達しました。

1980年11月22日
カオソックは国立公園として認定されました。

1982年
タイ国発電 公団(EGAT)は、パセーン川を塞き止め、165平方キロメートルの湖を国立公園の境界線の内側へ造ることで、ラジャプラハダムを建設させました。このダムは今では主要な観光地となった、南部一帯を賄うだけの電力を供給するために建てられました。更にタイ国発電 公団(EGAT)は湖近くに生息する動物たちが、ダム建設後も更に生息し続けることができる環境造りを心がけるとともに、南部で最も大きな発電所となりました。しかしながら、発電所の建設とともに、いくつかの種が何らかのストレスにより死に至り、1995年の調べでは、川に生息する魚類のうち、約52種が深い湖での生活に適合できず、生存できなくなっている事が確認されています。